かながわ民際協力基金 助成団体インタビュー
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かながわ民際協力基金インタビューVOL.11

かながわ国際交流財団の「かながわ民際協力基金」による助成金を活かし、県内の在住外国人や世界中の人々へのさまざまな支援活動をするみなさんの思いを伺います。
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苦しみも喜びも分かちあう難民の友として共に歩む
●NPO 法人アルペなんみんセンター
地域連携コーディネーター 漆原比呂志さん プログラムコーディネーター・小金井センター長 松浦由佳子さん
(インタビュー実施日:2024年1月16日(火))
https://arrupe-refugee.jp/


【団体概要】
アルペなんみんセンターはかながわ民際協力基金の2つの助成事業を実施しました。一つは54期(2022年度)民際協力アドバンスト・プログラムの助成金を活用して、難民シェルターとして地域に根差して多文化共生コミュニティを築いてきた活動をより多くの方々に伝え、難民との交流も体験してもらう機会を提供する、難民シェルター発「誰も取り残さない多文化共生社会」の担い手育成事業です。
もう一つは、ウクライナ危機緊急支援事業(現在は募集終了)の助成金にて、2022年7月から1年間にわたり、ウクライナからの避難者を受け入れシェルターを提供し、必要に応じて通訳を手配し、行政・地域コミュニティ団体等とも連携して、安心して定住するために必要なサポートを行う、ウクライナ避難者への緊急支援・定住支援事業です。



  • 漆原比呂志さん

  • 松浦由佳子さん



「アルペなんみんセンター」という名称の由来について教えてください。

漆原:
アルペなんみんセンターの事務所であり難民シェルターである、この建物は、もともとカトリック教会の修道会・イエズス会の持ち物であり、それを借りています。アルペなんみんセンターという名称は、そのイエズス会のペドロ・アルペ神父(スペイン人、1907-1991)の名前から来ているものです。アルペ神父は、1938年、宣教師として来日し、1945年に広島で原爆を体験し、被ばく者の救援・介護に尽力された後、JRS(Jesuit Refugee Service)という国際NGOを立ち上げ、世界の難民支援を牽引した方です。

また「難民」という文字が漢字では「難しい民」と書かれるので、これだと彼らが社会の中で“難しい存在”というイメージで受け止められてしまうのでは、という懸念がありました。私たちは「難民の友に、難民と共に」をキャッチフレーズにしているように、難民の人たちと当たり前に友達になれるように、という思いを込めてひらがなで「なんみん」としました。


「アルペなんみんセンター」設立の経緯について教えて頂けますか?

松浦:
アルペなんみんセンターを立ち上げたのは、事務局長の有川です。有川はこのセンターを立ち上げる前は、カトリック教会の団体で難民や外国籍の方々の支援をしていました。さまざまな生活支援や交流を行っていましたが、難民の方から「今晩、泊る場所がありません」と言われることも多くあったそうです。シェルターがないために住まいの支援に苦戦する日々が続いていました。

そうした中、2020年3月末に鎌倉の修道院が神父の高齢化で今まで通りの活動が難しくなったため閉鎖することになっていました。事務局長の有川が「日本に逃れてきた難民のシェルターのため使わせて欲しい」とイエズス会に打診したところ「世界的な課題のための活動、イエズス会の理念に沿った活動」ということで貸していただけることになりました。2020年2月に「NPO法人アルペなんみんセンター」を設立し、2020年4月に活動を開始しました。

当初、スタッフは有川ひとりでしたが、その翌年から漆原の他に事務局職員2名、2022年から私、松浦がフルタイムで入り、スタッフ体制も拡充してきました。また設立以来の活動を知った別の修道会「聖霊会」から、イエズス会と同じような事情で活動を縮小することになり、施設の一部を提供したいというオファーをいただきました。それを受けて、2023年4月から東京都小金井市で難民の女性と子どもたちを受け入れる「アルペ小金井センター」を聖霊会と共同で開設しました。鎌倉・小金井をあわせて、現在までに累計で26か国77人を受け入れてきました。

  • アルペなんみんセンター外観



アルペなんみんセンターの活動は、まずシェルターとして始まった、ということですね。

漆原:
そうです。その日、泊まる場所がない、という難民の方々のために、三食を提供する一時保護施設としてのシェルター事業です。そして毎日の暮らしに欠かせない衣類の提供(ありがたいことに多くの方からご寄付いただいています)や医療支援活動、そして日本語教育などの活動と徐々に広がってきています。

松浦:
私たちは「3つのC」と呼んでいますが、まず、住むところがない方を定住までサポートし見守る「Care」、次に、彼らが地域の方々と手芸やスポーツ、日本語学習、イベントを通じて交流したり、地域につながっていく「Connect」の支援をしています。そして最後、3つ目のCが「Change」のCです。日本では難民の受入れが遅れており、難民として認定される方も非常に少ないのが現状です。現行の難民認定制度が改善されないと、難民の苦しみは続いていきます。このため、難民の受入れに関する実態を多くの人に知っていただき、一緒に声を上げる地道な活動によって制度が改善するよう願っています。こうした思いで「Change=変えていく」活動に取り組んでいます。


多岐にわたる支援活動の中で、もっとも難しさを感じていることは何でしょうか?

松浦:
「制度の壁」が大きいです。立上げ当初に受け入れた難民申請者数名がまだ継続して暮らしていますが、彼らは難民認定を受けられず、「仮放免」というステータスです。本来であれば収容施設に入らなければいけないのを「仮りに放免」するというものです。こうした行き場のない方々を優先して受け入れてきましたが、彼らの出口を見出すのがとても難しいです。

ウクライナ避難民や定住難民の方も同時に受け入れていますが、彼らはしばらく一緒に生活し、日本での暮らしに慣れ、行政手続きや就労などの定住支援を経て、自立していきます。その一方で、仮放免の方はいつまで待っても「仮放免」のステータスが変わり得ない状況です。他の国であれば難民認定されて当然の方も認定を受けられず、ビザが切れた段階で「仮放免」となり、その後は「仮放免」期間を1か月~数か月ごとに更新する必要があります。

コロナ期間中は収容施設内でのパンデミックを防ぐため、「仮放免」を与えられる方が増えましたが、今年度(2023年度)に入り、コロナが収まってきたため収容を再開するという話を聞いています。当事者の彼らは、「次の更新の際に収容されるのではないか」という不安を常に抱き、支援する私たちも不安です。苦しんでいる彼らに対し、「大丈夫」と言って励ましてよいのか、、、本当に「大丈夫なのかどうか」は私たちにもわからないので「辛いね」といって、その辛さを分かち合うことしかできません。それが私たちにとって、いま最も辛いことです。

漆原:
仮放免の彼らが現在、置かれている状況として「就労することができない」「県をまたいだ移動ができない」そして「社会保障がない」という3点があります。私たちとしては支援もしたいし「共に歩みたい」という気持ちで活動していますが、実態として就労することができなければ、アルペなんみんセンターを出て自立した生活をすることもできませんし、病気になったときには、とても高額なお金がかかります。医療費負担としても100%あるいは場合によっては200%とられることもあります。

ここに入居されている方々は、母国では学校の先生や技術者など、本当にさまざまな技術や経験を持っている方が多いのです。そういった方々が、自らの経験や技術を活かして仕事をすることもできないし、もちろん給料も得られない状況にあります。それは単に生活するためのお金を得られないということだけでなく「人として生きがいを感じられない」、「社会において居場所がない」ことを意味しています。そうした彼らの姿を見ていると、私たちのこの社会が彼らを人として辛くさせているという状況に、心が痛みます。


日本では「難民支援」というとどこか遠い世界での出来事のように受け取られる傾向もあるかと思いますが、そうした意識を変えるためにご苦労されたことがあれば教えてください。

松浦:
難民の現状を様々な場所でお話させていただいていますが、日本で受け入れている難民が少ないことや、そもそも日本に難民が来ていること自体を知らなかった、という反応が多いです。このため、まず現状をお伝えすることが大切です。また「海外から沢山の人が入ってきたら安全が保てなくなるのでは」「多文化共生とはいうものの、実際はそんなに簡単なことではない。それをいとも簡単に進めていいのか」という反応もあります。私たちの広報や啓発活動がまだ十分ではないと気づかされるとともに、実態を知らないからこその反応とも感じます。実際、多くの方々がこのシェルターに足を運んでくださるようになり、一人一人と出会い、「難民」としてではなく名前を呼び合い、ふれあっていく中で、「このままではいけない」「自分も何かしたい」と心を突き動かされる姿を沢山見てきました。こうした地域の方々と手を取り合って進める地道な活動が、難民をとともに歩む社会への鍵になると感じています。

漆原:
「オープンデー」という月に1度に実施している、地域の方との交流を目的としたイベントを実施して、シェルター施設内をご案内しています。そこに近所の方々が来てくださり、その時にお話を伺うと「近所にある施設だし、気になっていたので来てみました」という方がいらっしゃいます。心のうちでは「どうやら、近所の山の上にある施設に『難民』がいるらしいが、どうなっているんだろう?」「なんだろう?怖いな」とも思っていらっしゃったようです。ただ実際にここにきて難民の方々と知り合いになることで意識が変わってきますし、そこから交流や具体的な関わりが始まるというケースもあります。また「オープンデー」の他にも「なんみん理解セミナー」(年6回開催)も実施して、難民の方々と直接出会い、交流する機会を設けています。

それから外向けの発信としては、例えばプレスリリースなどまでは手が回らず、さほど積極的には出していないのが実情ですが、ありがたいことにメディアの方々が取り上げてくださっています。また地域のさまざまなコミュニティ誌に掲載していただいたり、「鎌倉エフエム」という地元のFM局にも数回出演させていただき、この地域に実際に難民の方たちがいることについて発信する機会をいただいています。

  • オープンデー

  • なんみん理解セミナー



「オープンデー」や「なんみん理解セミナー」の他にも、地域の方々と交流する機会はありますか?

漆原:
身近な地域のイベントにも参加しています。例えばだれでもフラットに参加できる「地域食堂(ふらっとカフェ鎌倉)」に参加したり、小学校の放課後の時間に児童が集う「放課後かまくらっ子」の場で、子どもたちと一緒に歌ったり、ゲームをしたりアフリカのダンスを踊ったりして交流しています。また地域の小中学校、高校などにおいても、授業やイベントで難民の方々と子どもたちが交流したり、ご自分の体験を話してもらう機会をいただいています。

それから「なんみんカフェ」というイベントも開催しています。これは「食」を通じて友達になったり、難民やその国に興味を持っていただくことを目的として、スリランカの方が作ったカレーやミルクティをいただいたり、ミャンマーの方が焼きそばを作って披露することなどもやっています。他にも地元のお寺を会場とした国際協力のイベントなどで、私たちもブース参加をして、より多くの人たちに広く知っていただくようにしています。

松浦:
鎌倉市も私たちの活動を応援し、市内の全公立小中学校に私たちのポスターを貼ってくださっています。「私たちは『なんみん』です。鎌倉で暮らしています。」というそのポスターを日頃から目にしている小学生が「この人の話を聞きたい」といって訪問授業が実現したこともあります。「ポスターの人に会えた!」と、興味津々で質問を投げかけ、まるで映画スターに会うように喜ぶ子どもたちの姿に希望を感じました。

  • 小中学校に掲示されているポスター



行政側への働きかけをしている中で、スムーズに行ったことと困難を極めたことがあったら教えていただけますか?

漆原:
スムーズに行ったことは、鎌倉市議会が難民政策の見直しを図るよう国に対して意見書を提出したことです。これは、アルペなんみんセンターがこの鎌倉市内にあり、これまでの活動を評価していただいていることの表れかとも思います。さらにこうした活動の延長で、市議会から日本政府に対して、民衆に対する弾圧が続くミャンマーでの民主的政治体制の回復を促すことを求める意見書の提出にもつながりました。

また国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のグローバルキャンペーン「難民支援を支える自治体ネットワーク」に鎌倉市が日本で11番目に署名した自治体になりました。自治体と国連機関とNPO・市民団体が一丸となって取り組む、難民の保護支援制度をこれからつくっていく足がかりになると思っています。

松浦:
困難と向き合いつつチャレンジしていることは、保護を求めて逃げてきた日本に10年、20年もいて、日本語もでき、働いて自活する力もある方が、一時的な「仮放免」ではなく、正規に滞在する道がないかといつも模索しています。お子さんがいらっしゃる方や小学生も「仮放免」となっているので、彼らの在留資格の正規化が必要で、その実現を願っていますが、なかなか道が開かれません。それで第三国に行く可能性も選択肢の一つとして考えはじめていますが、それも容易ではなく、何をすれば彼らに明るい未来が訪れるのかと常に考えています。実現可能な選択肢がなかなか出てこなくて、ダメ元かもしれないけれど、全力であちこち働きかけを続けている現状です。


アルペなんみんセンターの組織形態について教えてください。またボランティアも募集されているようでしたら、どのような方法をとられていますか?

松浦:
フルタイムの職員が4名おり、他に週1~3日勤務のパートタイム8名ほどで運営しています。ボランティアはホームページで募集したこともありましたが、現在は、変化するニーズに合わせ、ご縁をいただいた方の中から協力いただくことが多いです。「オープンデー」や授業の一環で来所されたことがきっかけで来てくださった方もいます。

大勢の方に関わっていただいており、食事作りや買い出しに行ってくださる方が定期的に来てくださいますし、毎週土曜日の畑作業に参加してくださる方もいます。他にも日本語学習のお手伝いや、掃除、寄付いただいた衣料品の整理、イベントの時にボランティアをしてくださる方もいます。また必要に応じ、少数言語の翻訳・通訳をボランティアでお願いすることもあります。


民際協力基金のウクライナ危機緊急支援事業と54期「難民シェルター発『誰も取り残さない多文化共生社会』の担い手育成」事業の2つを実施しましたが、特に印象に残った言葉や事柄など何かありましたでしょうか?

漆原:
54期の「担い手育成事業」においては地域の方から、「自分たちとは異なる境遇の方々との出会いが、大きな気づきの場になっている」とおっしゃっていただいております。そして「なにか自分にもできることが、あるんじゃないか」とか「難民にとって過ごしやすい社会をつくるにはどうしたら良いのだろう」という声もいただいています。

松浦:
私はウクライナ支援事業を担当し、2022年4月に初めてウクライナ避難民の方を受け入れましたが、それまでの入居者は仮放免者のみでした。いつまでも先行きが見えない「仮放免」の方々と対照的に、入国直後から就労可能な在留資格に変更でき、在留カードが発行され、住民票、健康保険証もいただけるウクライナ避難民。待遇の全く異なる方々を同じシェルターで受け入れて大丈夫なのか?という不安が当初あり、先住の仮放免者の皆さんに有川事務局長から「受け入れてもよいですか?」と確認しました。するとニュース等でウクライナの現状を知る彼らは、「祖国が奪われていく辛さを知っている」「行き場がない不安もわかるので受け入れましょう。受け入れてください」と言ってくれて、その言葉は本当に励みになりました。

4月に来られたウクライナ避難民の高齢のご夫妻は、8月には都営住宅に無償で入居できることになり、新しい一歩を踏み出しました。後からシェルターに入居した彼らが先に自立することになったわけですが、先住の仮放免のみなさんがこれをどう受け止めるかと気になっていました。すると2人の子どもを抱えるお母さんが、そのご夫妻にむかって「お父さん、お母さんのように接してくれて、本当にありがとう。あなたたちの新しい生活が祝福されますように!」と心から喜んで送り出したのです。そして彼女だけではなく、ここの入居者全員が送別のメッセージカードを書いてくれて、この高齢夫妻の日本での新しい第一歩を喜び、応援してくれました。自分たちが何年も何年も待っていて一歩を踏み出すことができないのに、後から来て先に自立していく彼らを喜んで送り出せる懐の深さにとても感激しました。この印象的な出来事を学校などにお招きいただいた際にお伝えすると、聞いているみなさんは「自分だったらそうはできないと思う」と素直に話してくれたり、感激を共有してくださいます。

このようにウクライナ避難民支援を通じていただいた気づきはとても大きく、それをみなさんと分かち合えることを感謝しています。難民すべてがポジティブな方ばかりではないと思いますし、いろんな方がいらっしゃるのは当然ですが、大きな苦しみを経験し、今も苦しみを抱えながら生きている方々には、「他人の苦しみを分かち合い、喜びをも分かち合える」優しさと大きな忍耐力があるように思います。そんな彼らの存在の尊さ、またふれあいの大切さに光を当てる機会をいただけて、本当に感謝しています。


これら2つの助成事業の実施も踏まえて、今、難民受入れについて改めて感じていることはありますか?

松浦:
ウクライナだけがなぜこうした特別な待遇を受けられるのか、シェルター入居者も、また私たちスタッフもいつも疑問に感じています。ウクライナ避難民に対してできた支援を、例えば今、空爆や焼き討ち、不当な逮捕・拘束などミャンマーで激化する民衆弾圧の中で逃げ場を失い、なすすべもなく苦しむ人々を受け入れ、支えられないだろうかと強く思わされています。ウクライナ避難民支援でできたことを広く他国の人たちにも展開したい、という願いがあります。

漆原:
あとは、難民を生み出す根源となっている「戦争」が、今この時代に各地で起きている現状について、何とかならないのかなと思います。ウクライナやミャンマーもそうですが、ガサ地区のこともとても気にかかります。世界各地で戦争や虐殺が起こっており難民となった人たちがいます。過去に起こった、あるいは現在、起こっている戦争は、一人ひとりの人生に非常に暗い影を落とし、傷つけ、そして先の見えない人生を強いている、ということですよね。その根源たる「戦争」をなんとか止めたいと思いますし、新たな戦争が起こらないようにしていかなければいけない、ということは、日々このセンターの難民の方々と関わっていて感じるところです。


民際協力基金を知ったきっかけはなんでしたか? また54期助成事業とウクライナ危機緊急支援事業の2つの助成事業を終えた感想は、いかがでしょう?

漆原:
財団職員の方に民際協力基金について直接、ご説明いただく機会があり、チャレンジしてみようと思いました。申請後も本当に親身になって相談に乗っていただきました。

54期助成事業を実施した感想としては、活動を広げていくことができたのはよかったです。計画的に「なんみん理解セミナー」や「なんみん共生フォーラム」を開催したり、小冊子「難民って どんな人?」を作成・配布するというそれぞれのプロジェクトにおいて、スタッフ全員の力を合わせて実施できたのも、そのプロセス自体を含めて成果の一つではありますが、何よりも活動の輪を地域にも広げていくことができました。プロジェクト化する中で地域の様々な世代や役割をもった方々に難民について理解していただきながら、具体的につながっていくことができたのは本当に感謝すべきことだと思います。

自分たちのもともとの活動資金だけでやっていこうとすると、できることが自然と限られ、どうしても狭い視点、発想で考えざるを得ませんが、そこに助成金が入ることで、さまざまなアプローチで地域の方々と難民の方々がつながり、地域の方々とともにプロジェクトを実際に動かすことができました。もともと私たちがやりたかったことにかなり大きな弾みがついたと思っております。助成事業によってまかれた種から芽が出て、助成期間が終わった後でも、このつながりをどんどん横に広げていく見通しも立てることができたのでよかったです。



ウクライナ危機緊急支援事業についてはいかがでしょう?

松浦:
ウクライナ危機緊急支援事業では、当初、翻訳・通訳としてパートタイムで入った方を、助成期間の半ばでフルタイムのスタッフとして切り替えさせていただきました。変更を柔軟に受け入れていただき、ありがたかったです。また、それによって民際協力基金の支援に続いて、日本財団からの支援も活用することができ、広がりを持った展開ができました。助成金を人件費や施設運営管理費にも充てられるところはあまりないので、とても助かりました。

またウクライナ避難民の支援をしている、ということで注目を浴び、それがきっかけで初めてアルペなんみんセンターを訪れてくださる方もいました。施設内を見て、ウクライナだけでなく他の国も大変なのだと知っていただく機会にもなり、ウクライナ避難民の支援をきっかけに私たちの他のイベントに参加されて、実際に「視野が広がった」という方もいらっしゃいました。


助成金に関して「もっとこうだったらよいのに」という思いがあれば忌憚なくお話しください。

漆原:
助成期間が単年度になっていることでしょうか。1年というスパンですと、やれることには限界があると思っており、あっという間に終わってしまう感じです。5年は長いですけど例えば2、3年ほどのスパンで実績や成果を積み上げていけるような制度設計になっていると団体側としては非常にありがたいです。

やはり来年の資金の心配をしながら今年のプロジェクトを回すというのは自転車操業のようであり、いくつものお皿を皿回ししながら落ちないようにやっているという現状なので、腰を据えて3年、5年という少し長いスパンで活動できたらありがたいなと思います。

(財団注:民際協力基金では申請は単年度ごとに必要であり、最長で3年継続して助成を受けることができる仕組みとなっている)

松浦:
まだブレイン・ストーミングの段階ですが、将来的にミャンマーでの支援活動ができないか、紛争と貧困にあえぐ現地での支援活動と、日本に逃れてきたミャンマーの方々を支えていく、両輪の活動ができないかと検討しています。いままで私たちは国内だけで活動してきたのですが、助成金が国内だけではなく一部、海外支援にも活用できれば、そして私たちの体力がそこに追いついた際にはとてもありがたいと思います。

想定している内容としては、単に現地で活動する、ということではなく神奈川県内の地域の方々とミャンマーの方々との間での人的交流を促すようなプログラムを現地と県内で展開できればと思っています。渡航費なども含めてスカラシップ(給付型の奨学金)のようなイメージです。弾圧され、命の危機に瀕している方々、特に国の将来を担う若者達を日本に呼ぶことができたら、私たちの地域で支える難民支援活動ももっと豊かに広がっていくと思います。

(財団注:民際協力基金では海外での活動は助成対象外となっているが、その活動の成果を神奈川県内で発表するなどの事業については助成対象となる)


団体として今後、力を入れていきたい分野や内容などを教えてください。

漆原:
現在、「鎌倉なんみん共生フォーラム」という組織が立ち上がっており、地域の市民団体から運営委員が選出され、私も委員のひとりです。福祉団体やNPOなど鎌倉のさまざまな地域のセクターや個人がつながって難民の方の保護や支援に取り組んでいこうというものです。アルペなんみんセンターとしてだけではなく、そのフォーラムの組織として、立場の違う多様な活動分野の方々とそれぞれ知恵を出し合い、お互いに協力しながら具体的な支援の動きをつくっていきたいと思っています。

インタビューの最初にもお話ししましたように「制度的な課題」が大きく立ちはだかっており、国での動きがなかなか見られない分、先陣きって地域からスタートすることで、少しずつでも足下から変えていくことができたらよいかと。そして鎌倉の地でできることがあれば、それをお隣の地域、そして、いずれは神奈川県全域、やがて全国各地でもできるように広げていく。そういった小さな活動を積み重ねて、難民の支援・交流に関する「鎌倉モデル」のようなものを作っていければと考えています。

松浦:
私は現在、冒頭にお話した、2023年4月に東京都小金井市に開設した難民の女性と子ども向けのシェルターにいますが、「鎌倉モデル」にならい地域の方々と協力した動きを小金井でもできればよいと考えています。制度を変えるのは本当に難しく、先ほど鎌倉市議会から国に対して提出した意見書のことをご紹介しましたが、意見書に対する国からの回答はいただけないので、実際どのように受け止められたのか、知る由もありません。

ですので、一つでも多くの自治体の議会から意見書を出してもらい、これはもう無視できない、というレベルまで数多くの意見書が出されるようなムーブメントに結び付けられたら、と思います。ウィシュマ・サンダマリさん(※)の命を持っても越えられない制度の壁を、地域の底力で越えていくことに貢献できれば、という希望があります。

※名古屋出入国在留管理局の収容所に、不法滞在として収容されたスリランカ国籍のウィシュマ・サンダマリさんが、2021年3月6日に病状の悪化により死亡。

  • 鎌倉なんみん共生フォーラム



普通に生活している日本人でもできる難民の方々への支援活動はあるのでしょうか?

松浦:
難民支援というとアルペなんみんセンターや難民支援団体、あるいは海外の難民キャンプに行って、というイメージになりやすいと思いますが、支援を必要とする難民の方々は私たちの身近な地域にも暮らしています。「私は難民です」という名札を付けて暮らしているわけではないので見えにくいですが、難民であろうとなかろうと、自分の身の回りで困っている外国の方に声をかけてみる。友達になって手を差し伸べてみる。あるいは逆に手を差し伸べてもらうこともあるかと思います。そうした声掛けやふれあいを積み重ね、それが当たり前になっていけば、難民の方々も含めて、誰でもが暮らしやすい地域、そして社会になると思います。

漆原:
「難民」の方々をめぐる状況を通して、結局は人と人がつながっていく、ということになると思います。アルペなんみんセンターでもスタッフや地域の方々などボランティアさんで支援の活動をしていますが、私たちの側が学ぶことの方が多いです。アフリカの人、中東の人などそれぞれ「ああ、こういう面があるんだ」と気づかされることや、入居してくる方によってシェルター内の雰囲気が変わったり、彼らのバックグラウンドや得意なこと、考えていることや感じ方等を私たちが一つひとつ学ぶ、というか楽しんでいるうちに「共生社会」を体感していくことになります。

そして「みんな素のままでいいんだ」「そのままで受け入れられる」というところにたどり着く。だからまずは「友達になる」という第一歩から始めると、この世界が変わっていくのではないかなという希望を持っています。


最後に民際協力基金への申請を検討している後輩の方々になにか一言お願いします。

漆原:
助成金を申請する、そして実際に助成事業のプロジェクトを動かしていくことは、みんなで目標設定をしてコンセンサスをとりながら動いていくという過程になるので、チームワークづくりという点でもとてもよい効果がありました。事業を通して学ぶことが多く、よい経験になりましたので、ぜひ多くの団体の方にチャレンジしていただけたらよいと思います。


お忙しい中長い時間有難うございました。これからも培った経験を活かし益々のご活躍をお祈りします。


【コラム】オープンデー ~難民について知りたい方を対象に行う施設内ツアー紹介~

取材日:2024年2月20日(火)
ホスト:イリナさん(ウクライナ出身)/ 地域連携コーディネーター・漆原さん 
体験発表者:リヴィ(仮名)さん(スリランカ出身) / ジャック(仮名)さん(コンゴ出身)

日本で難民申請をしてそれが認められる割合はおよそ0.5%~2%となっています。認定を求めて長期間申請中の状態を続けている外国人も少なくありません。病気や家族の事情などで、出入国在留管理局に収容される代わりに施設の外で暮らすことが特別に許可された「仮放免」という立場に置かれている方々もいます。
アルペなんみんセンターでは、鎌倉市と東京都小金井市にて、そのような外国人が生活する一時保護施設を提供しており、また外国人と地域住民の交流を進める活動をしています。その活動の一環として、毎月1回開催している「オープンデー」は、アルペなんみんセンターに興味のある方、難民について知りたい方を対象に行っている施設内ツアーです。取材当日は難民申請の当事者である方々の話を聞いた後、施設見学が行われました。

  • アルペなんみんセンターの施設入口



◆はじめに

イリナ:
みなさん、ようこそアルペなんみんセンターへ。私は2022年秋ごろからアルペなんみんセンターで働いています。ここで働くまで、私は正直なところ「難民」のことを何も知りませんでした。2年前に始まったウクライナの戦争の時、私は既に日本に住んでいましたが、両親は危険な環境におり1日でも早く日本に呼びたいと思い、アルペなんみんセンターにお願いして、二人とも無事日本に来ることができました。来日してから5か月間ここでお世話になって、その後、難民申請が通り、東京の都営住宅に住民として家賃無償で入居することができました。

漆原:
アルペなんみんセンターの地域連携コーディネーターをしております。ここの入居者の方と地域のみなさんが交流する場をつくる活動をしています。それでは今日、ご自身の体験をお話しいただく入居者のお二人を紹介します。

リヴィ:
2002年に日本に来ました。スリランカ出身のリヴィ(仮名)です。

ジャック:
ジャック(仮名)といいます。コンゴ人です。5年前日本に来ました。前は東京に住んでいました。ビザがストップしたので、1年くらい前にここに来ました。

漆原:
ジャック大変器用な方で電気製品や家具を修理するのがとても得意な方です。入り口の緑色のドアも、最初はボロボロだったのを直してもらいました。


◆リヴィさん・ジャックさんのそれぞれの体験

リヴィ:
スリランカでは1983年から2009年まで内戦が続きました。その間、私は10年ほど大臣のボディガードを務めていました。当時、私の住む地域のテロリストは夜間、活動をしていたのですが、ある日、大臣と一緒にメインオフィスから車で戻るときに銃撃されました。私の隣に座っていた人は胸に銃弾を受け即死し、私は腕に銃弾を受け大ケガをしました。もう一人も首に銃弾を受けて死にました。
また2005年には私の父方の叔父はモスクで殺され、2008年に母方の叔父が畑に行く途中で殺されました。2009年と2010年には、家からほど近いところで、何の関係もない一般の通行人が2人、テロリストに殺されており、ずっと危ない状況が続きました。また今年の1月にもスリランカでは5人、一般人がテロリストに殺されました。いまもスリランカはとても危険な状態です。
なぜ私がほかの国ではなく日本を選んだかといえば、日本は一番早く逃げられる国であり、申請して2週間でビザが下りました(例えばイギリスだとビザが下りるまで3か月もかかる)。でも「難民認定」がおりなかった。日本に来た時、私は28歳だったが今は50歳。私の母は2023年1月29日に死にました。私は母に何もしてあげることができなかった。日本で20年間も在留資格が認定されるのを待っています。この20年間は私にとって何もない人生(No Life)だった。 過去に2度、在留資格認定を早期に行うよう裁判を起こしました。スリランカの大臣や病院からも、日本の出入国在留管理局に対して「銃撃されたことは事実である」という手紙を送ってもらい、帰国できない理由も説明したが認定されませんでした。3月21日に3度目の裁判の結審がありますが、今度は日本の人権弁護士が3人もついて応援してくれています。結審のことを考えると眠れないこともあります。良い結果がでることを祈っています。

イリナ:
ここ(アルぺ)に住んでいる外国人たちは在留カードが持てないし、健康保険証もありません。医療費は100%、200%払った人もいます。では続いて、ジャックさん、お願いします。

ジャック:
アフリカのコンゴ民主共和国から来ましたジャック(仮名)です。私の着ているTシャツを見てください。『私たちは正義を要求します。1000万人以上の死者』と、ジェノサイド(大量虐殺)について書かれたものです。コンゴで戦争が始まって30年が経っています。

  • ジャックさんのTシャツ



コンゴの中でずっと深刻な問題は、このジェノサイドが今も続いていることです。いろいろな国からたくさん日本に難民の人が来ていますが、アフリカ人に対して日本の対応は良いものとは思えません。今、パレスチナの問題やウクライナの戦争については報道されているけれども、私たちアフリカのことは全然話題になりません。私は今、祖国に帰ることもできないし、日本で仕事をすることもできません。
私たちの戦争の根源は「対立」ではなくて「資源の争奪」です。コンゴで戦争が起きているのは東側だけです。なぜかというと東側には資源があるからです。みなさんが持っているiPhoneやスマートホンに使われている部品の材料にはコバルトが使われおり、それはコンゴから来ています。1945年に広島で使われた原子爆弾のウラニウムもコンゴから産出されたものです。世界の70%のコバルトをコンゴは持っている訳ですから資源としてみなこのコバルトを狙っているのです。またリチウム電池のもととなるリチウムも豊富にあります。
このようにコンゴにある豊富な資源が戦争を引き起こしています。この戦争で600万人の人たちが住む家を失っています。これが私の祖国コンゴの現状です。

イリナ:
ウクライナでも日本でも、コンゴのこうした話は聞いたことがありませんでした。この2月24日で丸2年になるロシアによるウクライナ侵攻のニュースはみなさんご存じですよね。一方、コンゴが30年間も戦争の状態にあることを私は知らなかった。コンゴの戦争のことは自分で探さないとみつからない。
ウクライナのことはみんな知っているのに。スリランカも30年間も戦争していることをみんな知らない。私は今、お二人のお話を聞いて恥ずかしい気持ちになりました。「ごめんね」という気持ちをすごく持っています。

リヴィ:
ジャックさんはとても働き者です。ビザがおりたら普通の人よりお金が稼げる。何でも作るし、直せるので、そういう技術は非常にもったいない。やる気も満々なのに仕事ができない。

ジャック:
私は祖国で電気関係の仕事をしていました。多くのトレーニングをしてきて、その経験を活かしたいのにビザが下りないのです。許可がないとアメリカ、フランス、オーストラリアなど安全な国に行くこともできないのです。もし私が日本を出る場合、私は危険な祖国に一度帰らなければいけません。私は何の罪も犯していないのにまるで囚人のようです。

イリナ:
日本に来る前、日本の難民政策に関する情報がまったくありませんでした。外国人が持つ日本のイメージは「とてもきれいで安全な国」「ご飯もおいしい」といったものだが、それは外国人観光客向けの情報。これは日本人ではなく日本のシステムがよくないのだと思います。そもそも日本の人たちが、難民受入れに関して、国ごとに違いがあることを知りません。一人でも多くの日本の人たちが早くこのことに気づいてもらえれば、と思います。

漆原:
それでは今日、参加されたみなさんの感想をお聞きしましょう。

『アルぺ』のシェルターのことは、資料や映像で見ていましたが広々としていて良い施設だなと思いました。お二人のお話で毎日、苦しみと葛藤の中で生きておられることを知りました。こうした現状を知り積極的に周りに伝えていかないといけないと思いました


1週間に1度ボランティアをしている時はおだやかで平和な場所という印象だったのですが、やはり今日お二人の方のお話を伺って大変ショックを受けました。私たち日本人もテレビで放送されるウクライナのことだけではなく、他の国のことももっと知るべきだと思いました。イリナさんが自国ウクライナ以外の戦闘が続く国のことも心配されるのは、その根本に『平和を求める心があるからだ』と思い、感動しました


等々
※参加者のみなさんはこの後、施設見学をしました


  • 大量の食材を保存できる大型冷蔵庫も

  • 広めのシンク

  • 畑でとれたての新鮮な野菜も

  • ごみの分別を理解するのに一苦労

  • 12時半と18時半に施設のみなが集う食堂

  • 一人ひとりの個室

  • 施設屋上から見える景色

  • ウクライナ避難民の方々の紹介パネル(エントランスホール)



オープンデーは、当事者の方々が、話をすることで難民申請者をめぐる状況を理解してもらったり、人と人の関わりを持つことで自分らしさを取り戻すための大切な機会になっています。
またアルペなんみんセンターを訪問した方の中には、今回の体験発表者であるリヴィ(仮名)さんとの交流をきっかけに、これまで自身の中では遠い世界の話だった難民問題を身近な問題として捉えるようになりました。「難民」の存在をもっと広く知って欲しいとの想いから、その交流をSNSにアップしたり、さらにリヴィさんと繋がる機会を作りたいと自宅に招いてパーティなども開催しています。
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